Written by Nereus Research Associate Lydia Teh,
マレーシアのサバ州センポルナの町から約20分離れた小さな島で、真昼の太陽の下、ウミガメ保全プロジェクトのインタビューを受けてもらえる漁師達を探してビーチ沿いの家々を尋ね歩いていると、3、4人のバジャウ族の子供たちが影のように私について回った。しばらくすると、子供たちは興味がなくなり遊びに行った。平日だったので、本来なら他の村の子達のように学校にいるはずである。しかし、彼らは学校に行けないのだ。なぜなら彼ら、バジャウ族は、マレーシア市民として認識されない人々だからだ。この島では、市民のみが政府が運営する学校に通える。国籍が無ければ、政府は見て見ぬふりをする。バジャウ族は、文字通り、教育、医療、社会福祉、そして正式な雇用機会もなく海に投げ出されている。自分の故郷であると考える国で生まれ、そこに住んでいるにもかかわらず。
バジャウ族は、何世紀もの間、地域の海上貿易のために水産物を供給してきた、豊かな海に住む海の遊牧民だ。彼らの歴史上の故郷は、フィリピン南部、マレーシアのサバ州、そしてインドネシアのスラウェシ島の水域に及ぶ。現代の政治的境界が引かれた際に、バジャウ族は見落とされてしまったのだ。土地の分配を重視する政府は、国際的な海洋の境界線にとらわれずに移動しながら生活する彼らの様式に対処できなかったのである。今日、バジャウ族の多くは水上集落に定住しているが、今でも魚やサメ、その他の海洋動物を捕獲して取引し、先祖から伝わる場所を訪れながら、これまで同様、定期的に海へと戻っていく。しかし、彼らのその移動生活様式が障害となっており、マレーシア政府にとって望ましくない、国家安全保障を脅かす対象となっている。このように、バジャウ族は部外者として扱われ、市民の権利は認められない状態が続いている。だから、バジャウ族の子供たちは、学校の時間でも太陽の下で遊び続けていたのだ。
バジャウ族は、極端に経済的、社会的、そして政治的に疎外された環境で暮らし、海洋に依存する人々の事例の一つである。しかし、その他の地域の漁業コミュニティの多くも、バジャウ族ほどではないものの、適切な保健医療や教育、ゴミ処理管理、安全な飲料水の供給がなされず、金融ツールの利用もできない貧困の淵に立たされている。
科学に基づく海洋管理の見識からは、海洋保全および海洋持続可能性の大義のために、既に貧困にされされている彼らの生活、漁法が犠牲になると考えられる。
適切な管理がなされれば、保全は成功する。基本的な社会サービスは、管理のための必須要素である。人々が海に依存することなく、一定のレベルまで自立しなければ、海洋生物多様性および漁業を保護するための長期的な結果は得られないだろう。銀行口座もクレジットもない漁師は、毎日の生活必需品を買うために、前払いしてくれる魚の買い手との債務のルーティーンからどのように抜け出せるのか。唯一の選択肢は、漁業を続けることだ。医療が受けられないために家族内で長期的に病人が出た場合、経済的な負担や漁業に出られない時間が生まれることに関してはどうか。唯一の選択肢は、さらに漁業に励むことである。漁場に制限が出たら、教育を受けてこなかった彼ら漁師にはどんな選択肢があるのか。唯一の選択肢は、漁業をするために他の漁場へ行くことだ。これでパターンが見えてきただろう。
海洋持続可能性のための活動が介入しても、コミュニティの基本的なニーズは認識される事はない。議論の余地はあるかもしれないが、環境NGOにはこういったコミュニティの必要性を保証する責任はない。海洋保全域に見られる取り組みが「社会的に受け入れられ、有用である」ことを目指すのなら、目指す利益を手に入れるための条件となる必須事項を保証するべきである。そうでないと、漁師とワークショップを重ねることで、それが海洋保護の「社会的」側面を満たすとの思考に引き込むには、あまりにも表面的だろう。もっと広く言えば、社会開発というより幅広い脈絡の中に海洋管理を位置づけるという議論は、食料、保護施設、適切な生活水準など、人々の生活に欠かせない基本的権利を確保するという見地でなされるべきである。これは、FAOの小規模漁業ガイドラインで採用されているスタンスである。漁業管理に対する権利を基にしたアプローチを促進し、国際的な同意を得ている。この視点の変化は、漁業コミュニティにおける真の持続的な社会的改善を推進するために必要であろう。少なくとも、次の点は明確になるだろう:人々を大事にすることで、海が大事にされる。サバ州のバジャウ族の子供たちが教室への一歩を踏み出すその日を、望んでやまない。